1.八月踊りのおこり

2009/3/22 15:31 更新

 多良間の八月踊りは、いつ頃から始められたものであるか史実は定かでないが、その本来の名称が「パチュガツウガン」(八月御願)と称されていることからすると、かなり古い時代から始められていたと思われる。

 首里王府は、1609年薩摩の侵略を受けその支配下に服することになった。それにしても在地役人を介しての間接統治であったが1629年から常駐在番を派遣しての直接統治となり、首里王府に対する圧力がきびしくなった。首里王府は、その体制維持の一方策として1637年、宮古、八重山に対して人頭税を課すことになった。それ以来、農民は穀税のために酷使される状態にあった。15歳以上50歳までの納税義務者は一様に納めていたが、7年後の1644年から年齢によって差をつけ、15年後の1659年からは、穀税のほかに反布税が課されることになり、住民は一層過重負担の重税に苦しめられた。

 穀税や反布税を、その年の旧暦7月までに皆納し、翌8月には「パチュガツウガン」と称して各御嶽に祭事を行い、完納の報告とお礼を述へ、さらに次年の豊作を祈願することを年中行事としていた。その際、神前で「奉納踊り」をすることが慣例となっていた。

 古老の伝承によれば、古くは「皆納祝い」といわれ、字の帳簿にもそのように記されていたということである。ところで、記録によれば「皆納祝い」とは天保年間(1830~1834)に始まったとされていることから、「皆納祝い」と称されるようになったのは、人頭税制が施行されてからおよそ200年ほど経てからのことだと思われる。

 前述のような営みが「皆納祝い」として、住民挙って大いに祝い、共に喜び楽しみ、納税の苦しみを自ら慰め合い、励まし合ったものと推察される。

 「八月踊り」は、当時、祝い酒に浮かされた踊りに始まり、それをもとに島で創作された「民俗踊り」のみが演じられていたが、明治の初期から中期になって「古典踊り」や「組踊り」が首里を中心に沖縄本島から伝播されたようである。

渡久山著

2.踊りの内容と種類

2009/3/22 15:45 更新

 多良間の八月踊りは、その踊りの内容から見て、土から生まれた「民俗踊り」と沖縄本島からもたらされた「古典踊り」および「組踊り」の二つに分けて考えることができる。

イ、民俗踊り

 「スースブーギス(小さいス)」(獅子舞い)「ボウアース」(棒踊り)、「ンニツキス(小さいス)ブドゥリ」(杵搗き踊り)、「ユリ゚ツキス(小さいス)」(ユリ゚は粗目のザル)、「ヨウイシー」(労役踊り)などがある。そのなかで、「ンニツキス(小さいス)ブドゥリ゚」と「ユリ゚ツキス(小さいス)」は、農耕などの生業に関する祭祀神事の一部であり、神に捧げて民もこれに和して楽しむ芸能として伝わっているもので、穀物類を調整するしぐさで踊り、音曲も、穀税を完納して祝うことを意味する多良間島の代表的民謡「たらまゆ-」によって演ぜられている。「ヨウイシー」は樵の労役のしぐさをおもしろおかしく演じているが、音曲の大部分が穀税に関するものである。ニ才踊りのうち仲筋の「タカパナリ」、塩川の「中たき節」や「多良間三星」、狂言の「ナナム゚ニ(耕作劇)なども「たらまゆー」の歌詞で踊っている。八月踊りを「皆納祝い」と唱えている所以でもある。

ロ、古典踊りと組踊り

 「古典踊り」(若衆踊り、女踊り)は「組踊り」の渡来以前にもたらされたか、あるいは同時点であるのか定かでないが、古典の曲目については、それぞれ「仲筋の踊り」と「塩川の踊り」の項で述べるので、ここでは「組踊り」を多良間島に導入した年代について考察を試みることにする。

 仲筋の組踊りのうち、「仲宗根豊見親組」は、地元で創作されたものだと伝えられているが作者は定かでない、その台本の表紙に「光緒十五年八月吉日写之」と書かれていることからすると、1889年(明治22年)以後に演じられたものと思われる。

 「忠孝婦人村原組」の台本には、筆写年月日は記されていないが、1800年作で、1838年と1866年の「御冠船踊り」に上演されたことになっているので、後者の台本の写しだろうと言われている。「ム゚ナカヤー」の先祖が当地にもたらしたとの説もあり、明治初年頃多良間目差を勤めた与那武会がもたらしたとの説もあるが、未だに定かではない。

 塩川の組踊りのうち、「忠臣公之組」は、1807年作で、1838年の「御冠船踊り」に上演されたと言われており、台本の末尾に「光緒拾九年癸巳九月吉祥写」と記されていることから、1893年(明治26年)以後に演じられたものと思われる。当地に誰がもたらしたかについては全く定かでない。 「多田名組」の台本にも筆写年月日は記されてないが「忠臣公之組」と同じ頃にできたのではないかと言われている。古老の伝承によれば、塩川では、明治28、9年頃「忠臣公之組」と「手水の縁」を上演していたが、事情によって「手水の縁」を廃し、代わって「多田名組」を演じるようになったと言われていることから、前三組より遅れて上演されたことになる。この「多田名組」も誰がいつ導入したかは定かでない。

 いずれにしても、多良間島で「組踊り」が演じられるようになったのは明治20年代になってからだと思われる。

 「組踊り」の構成人員は少ない方で16人多い方は20人を超すメンバーである。このように「組踊り」は、数多い演目の中でも八月踊りの主体性を持つものといえる。その上演は、両字とも午前の部にそれぞれ1組、午後の部にそれぞれ1組となっている。

 ところで、八月踊りを上演する時刻は、仲筋の正日(初日)の早朝、両字とも各御嶽や踊り場の拝所で「八月御願」の祭事を行う。

一方、踊りに関わる各座では諸準備をすすめ、午前10時から11時ごろ開始し、午後七時過ぎに終わっている。

 塩川の正日(2日目)も開始時刻は前日とほぼ同様であるが、終わりの時刻は幾分早い。それは「組踊り」の所要時間が異なることに起因すると思われる。

ハ、出演状況

 当時、15歳以上の者は正人と呼ばれ、正人男姓によってすべての役が演じられていた。古くは、士身分、百姓身分のきびしい制度がありながらも「民俗踊り」のみが演じられていたことになるが、「古典踊り」や「組踊り」が導入されると、士族はそれに飛びつき、「民俗踊り」は百姓だけで演じるようになり、それぞれ定着するようになった。いくら懇願しても百姓が「古典踊り」や「組踊り」に出演することは許されなかった。特に極端なことは、獅子舞いにおいて獅子になるのは百姓であり、誘い手は士族がやったということである。そのような慣習が長い間続いたが、漸く昭和34年頃から出演の身分差別が解消され、希望によって平等に出演することができるようになった。

 なお、正人男姓で演じていた「若衆踊り」や、「組踊り」中の子供役は中学生男子、さらには小学生男子が演じるようになり、「女踊り」や「組踊り」中の女役(母親役を除く)は中学校女子や女子青年や若い婦人等が演じるようになっている。また、「二才踊り」では「小二才」を中学生男子、さらには小学生男子が演じ、「大二才」にも中学生男子が加わることになり、「民俗踊り」の女役も女姓が演じるようになっている。「狂言」は男役、女役を問わず正人男姓のみで演じ、劇を中心に少々の手踊りが加わる程度であったが、近年、女姓による手踊りが主になり、劇は陰に潜みつつある。

渡久山著

3.日取りと稽古

2009/3/22 15:45 更新

 八月踊りの日取りは、両字の二才頭(神社御嶽の祭事を行う人)6人が旧暦の7月上旬会議の上、「ティパズミウガン」(手始め御願)の日と「パチュガツウガン」(八月御願)の日取りを吉日を選んで決め、字長に連絡する。

 字長は、旧盆が済む頃になると「手始め御願の日時を広告をもって字民に知らせる。その日は両字とも字の役員や二才頭はもとより、字の有志、各座の師匠及び踊り手等がそれぞれの踊り場に集合し、上酒、中酒、ショウカン(塩)を神前に供えて「手始め御願」を行う。しばらくしてお供えした上酒、中酒を酌み交わしながら、仲筋では「福緑寿」、塩川では「長寿の大主」、続いて「組踊り」等の役をとびとびに舞台で演ずる。

 そのあと、字長は、八月踊り開催の可否について提案し意見をまとめる。食糧自給の時代は、長い干ばつや大暴風に襲われた凶年では、生活に喘いで踊りどころではない、ということが往々にしてあったからである。

 その期日は、古くから旧暦の8月8日を「八月御願」の日とし、その日が仲筋の「正日」で、次の日を塩川の「正日」、次の日を「別れ」(両字)としていたが、大東亜戦争後になって旧暦8月14日以前で二才頭が選定した日に行うことになっていた。しかし、近年になって、再び昔に返り、旧暦8月8日を「八月御願」の日にするようになっている。

 八月踊り開催が決定すると、各座の責任者は、昨年以前に出演した人や新たに希望する者を集めて稽古に収りかかる。その練習や準備は責任者の家で行っていたが、公的施設が建設されたことによって、適当な場所で行っている。当日が近づくと舞台稽古で熟練するようにしている。

 昭和30年頃までは、指導が厳しく、とくに華やかな役については希望者が多いため抽せんや実際に演技をさせて決めるほどであった。そのためにせりふの記憶や動作を正しくするための努力は創造に固くない。近年は指導の厳しさが若干緩み、稽古に要する時間も少ないように思われる。

渡久山著

4.八月踊りの企画運営

2009/3/22 15:45 更新

 八月踊りは、仲筋、塩川それぞれ別々に企画して運営し、字長が主宰する。字長は下に中老座を設けて企画を担当するが、さらに、次の組織をつくってその責任分野を分担する。

1. カンジン座-八月踊り一切の経理、案内状の発送、当日の受付けなどを担当する。
2. スタフ座(支度座)-衣装、髪飾り、笠幕、ンカジャバタ(三角旗)、大風回、鎧冑等々踊りに要する全ての物の製作、補修、保管を担当する。
3. 端踊り座-若衆踊りと女踊りがこれに属している。師匠宅を稽古場とする。
4. 組座-組踊りのメンバーがこの座に属し、師匠が中心になってまとめ役をする。粗稽古は師匠宅でやっていたが、公共施設が多くなったことで、そこを稽古場としている。
5. ズーニン座(地謡座)-音楽を担当する人で組織している。
6. 獅子座-獅子舞い、棒踊り、民俗踊り、ヨウイシーなどを担当する。
7. 笠座-二才踊りを担当し、小二才、大二才で構成する。塩川では組座に合併している。
8. 狂言座-狂言劇、寸劇、歌劇、舞踊など雑踊りがこの座に属している。

5.踊りの場所と施設

2009/3/22 15:44 更新

 八月踊りの場所は、仲筋は「土原御願所」、塩川は「ピス(小さいス)トゥマタウガム゚」である。両御願所共八月御願を行う聖域として、ふだんから清められている。「土原御願所」の境内は、樹齢250年余のアカギのほかに、デイゴ、フクギ、ガジュマルなどの古本が枝を交えて繁茂し、全面木陰となって涼風を呼んでいる。

 「ピス(小さいス)トゥマタ御願所」は、樹齢200余年のフクギのほかに、デイゴ、ガジュマルなどの樹木が繁茂しているが「土原御願所」ほどではない。いずれも露天踊り場として最適な場所である。

 舞台は、どの踊り場でも広場の中央に設置されている。大正初期までは地面を区画して筵を敷いてそこで演じていたようであるが、その後、石を並べて区画し、土を盛り上げて舞台にしていたが、戦後、縁をコンクリートに改造した。縦約6メートル、横約4・5メートル、高さ約24センチメートルの永久構造物であったが、平成3年、縦約6・5メートル、横約5メートル、高さ約25センチメートルの舞台ができ、その上を覆って縦横約9メートルの屋根ができ、雨天の場合でも上演可能な立派な舞台ができ、平成4年度の踊りから使用されている。

 「地謡座」は、どの踊り場でも舞台の後方に接しており、地面に演じていた頃は「地謡座」も地面にあったようであるが、その後、材木を持ち寄って組み合わせて高台を拵らえて使っていたが、戦後、コンクリートで恒久的に建造し、平成3年に増設され、放送部を含め広々とした地謡座となっている。

 「客席」は、地面に演じていた頃は正面と左右に地面に筵を敷いて座って観覧していたようであるが、石縁の舞台が造られた時点で「客席」も盛り上げた石縁の小規模のものができ、舞台がコンクリートの縁に変わったときに「客席」もこれまでの規模をやや広めてコンクリートのものになり、平成3年、舞台を改造した際「客席」も一層広くなっている。

 「舞台の装飾」は、舞台と地謡座の境に幕が張られ、その中央上部に仲筋では「偕楽」、塩川では「歓楽之」の額がかかげられ、その左右には組踊り及び福禄寿(塩川では天孫子)の高札、風車、三角旗などが飾られる。正面の額の「偕楽」(仲筋)は、ともに楽しむの意味であり、「歓楽之」(塩川)は、喜んでこれを楽しむの意味である、いずれも、八月踊りの意義と村民の心情をいかにも象徴している。

渡久山著

6.八月踊り存続の要因

2009/3/22 15:44 更新

 「皆納祝い」「民俗踊り」に始まったものが、今日まで継承され、発展してきていることには次のようなことが考えられる。

 八月御願は、1637年に実施された人頭税の納税義務を果たした安心感、しかも、それは神のお加護によるものとして各御嶽に祈願を行ったことが習俗となって今日に至っている。そして、両字ともに八月踊り初日には早朝、各御嶽に参拝して祭事を行うことが慣例となっている。一方、住民の共同体の連帯意識が根強く残っており、その住民意識は大きな存続の力になっていると考えられる。1628年、宮古に間切制が施かれた際も、多良間島は特別行政区としておかれ、1908年(明治41年)特別町村制施行によって平良村の管轄となり、1913年(大正2年)平良村から分村して独立、その間、長い年月の歴史は宮古島との交通が不便で離島苦に悩んでいた。従って、昔ながらの部落共同体としての自治がそのまま行われていた。

 仲筋、塩川に出演する踊りの演目は、組踊りをもたらした明治中期以前の民俗踊り時代から、両字とも協議の上、これを公平に分け合って、しかも、異種同数で行っている。八月踊りの日取りも仲よく協調的である。また、技を競うという意味での意欲も、八月踊りの芸能効果をもたらしているものと考えられる。そのように各種要因で今日まで継承されている。

渡久山著

7.おわりに

2009/3/22 15:44 更新

 八月踊りで古典踊りや組踊りの演技は、首里を中心とする沖縄島のそれとは格段の相違があり、野趣で優美に欠けていることは、多良間島の習俗や土着の芸能の影響もあって、中央と異なった伝統をなして今日に至っている。

 組踊りや古典踊りの歩行が爪先を殆ど直角に立て踵を上げ、その足先を前へ出して少しひいて踵を起こし、他の足を同じ要領で繰り返す多良間様の運歩であること。

 接司その他の男役で、登場して正面になおると、脚を開き、腰を大きく落とし、伸び上がって身えを切ること。
 ツレや供の役で、やはり両脚を開き、両袖を左右へ一杯にひっぱって地面に水平に上げること。
 男役が、2人あるいはツレを含めた2組で向かい合って議論し、詰め寄るところで立膝して左脚を中心に、何れも身体をブルブル震わせること。

 以上のことは、多良間の古典踊りや組踊りの特徴といえる。専門家のなかにはそのような点を取り挙げて、首里風と比較し、多良間様を批判している者もある。

 また、専門的訓練を経た都の芸能と、半ば素人の演技である多良間島の芸能とには、一般的にいって洗練と粗野との相違があることは争えない。何れにしても多良間島の芸能は首里伝来の芸術を伝承しただけではなく、むしろ、伝承の過程でその演技や演出を切り替えていったのであり、辺境離島の芸術を首里文化の鄙俗化、下降としての側面だけから評価しようとする枠組からは到底とらえられない創造力を噴出させていると評価する専門家もある。要するに、八月踊りは、長年絶やすことなく持ち続けて来た伝承文化である。多良間島の人々にとっては、心の古里として生きる明日への活力でもある。これからも全住民のものとして保存に努力し継承していきたいものである。

渡久山著