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多良間村村制施行80周年記念写真集

2009/3/30 20:18 更新

このページにある写真は1993年に発行された「多良間村村制施行80周年記念写真集」からの抜粋です。
撮影:小橋川共男

八月踊り写真集

2009/3/30 20:25 更新

多良間村観光商工課保有の八月踊りの写真です。

多良間村の概要

2009/4/20 17:10 更新

 多良間村は、宮古島と石垣島とのほぼ中間に位置し、北緯24度39分、東経124度42分に位置する、面積19.75k㎡の楕円形をした多良間島と、約8km離れた面積2.153k㎡のさつまいもの形をした水納島の2島からなります。

 多良間村は、宮古島の西方約67km、石垣島の北東約35kmの海上に位置しており、琉球王国が中継貿易で栄えた中世には、沖縄本島と宮古、八重山地域を結ぶ航海上の要所でした。

 本村の基幹産業は農業で、さとうきびを中心に野菜、葉たばこ等の農作物が栽培されていますが、近年、畜産業も草地開発事業の実施や、セリ市場の開設で肉用牛の生産が盛んに行われています。

  水納島は、砂地が多く農業には適さず漁業が主な産業でしたが、近年は、畜産業が主産業になっております。両島ともにこれまで観光産業に対する取り組みがなく、手つかずの自然が多く残っています。

●多良間島へのアクセス

飛行機: フェリー:
宮古島-多良間島 宮古島-多良間島
RAC 39人乗り 約20分 約2時間
1日2往復 一日1往復(日曜日は運休)
  多良間海運(0980-72-9209)

水納島へのアクセス

チャーター船:
多良間島-水納島
約15分

多良間村のシンボル

2009/4/20 13:51 更新

手付かずの自然が残る多良間村。最も愛され親しまれている村のシンボル


 熱帯の気候・風土、そして歴史的背景から、この島に根を下ろした動植物が、村のシンボルとして 親しまれています。

 内には、農作物や家屋を災害からまもるフクギが集落を美しく彩り、別名「フクギの里」とも呼ばれ、村木に指定されています。

 花は、かつて首里王府に貢納品として上納したことに由来しタラマバナの名称で呼ばれています。 村花木のセンダンは、早春を告げる芳しい花の香りを放ち、薬用として知られています。

 ッジャガマの名で呼ばれる村鳥ウズラは、ウッジャガマといえば多良間村を連想するほど、島の生活風土に馴染んでいます。

 らに島を彩る美しい珊瑚礁の海には、ニバリと呼ばれるハタが生息し、村のシンボル魚になって います。


■村魚(ニバリ)
 浅い岩礁地帯に生息するハタ科の一種。多良間でニバリと呼ばれるのは、カンモンハタで、そのほか種類によって、アカニバリ、ガマニバリなどに分けられています。

■村花(タラマバナ)
 地中海沿岸地方から西アジアが原産といわれる1~2年生の草木。
50~100cmに成長し、アザミに似た花を咲かせます。古くから染料や薬草として暮らしの中で使われてきました。

■村鳥(ウズラ)
 その愛くるしい姿から子ども代わりにも可愛がられてきたウズラは、童話にも歌われ、愛唱唄として広く唄われています。近年では、数が減少し保護が必要と言われています。

■村花木(センダン)
 方言名シンダイギー。石灰岩地帯に生える落葉生の高木。
樹皮は黒褐色で、幹が直立し木目も美しいことから、タンスなどの家財材料として使われています。
写真は、沖縄の名木百選に認定された多良間小学校のセンダンです。

多良間の歴史

2009/4/20 14:01 更新

 多良間島と水納島にいつ頃から人が住み始めたのか定かではありませんが、考古学的考察から先史時代には人が住み、島外との交流も行われています。その後、さまざまな伝説に残る人物が登場する中で、15世紀末に出現した土原豊見親春源は、群雄割拠を繰り返す諸勢力を統一し、点在していた集落を現在の位置に統合しました。1500年には八重山の赤峰(八重山では英雄)征討に従運し手柄をたてた功が認められ、尚真王から多良間島主に命ぜられます。以来、土原豊見親の子孫による統治が17世紀初めまで続きました。

 間切(現在の市町村)時代は、平良、砂川、下地の3間切のいずれにも属さず、宮古の特別行政区におかれたといわれています。塩川村と仲筋村、水納村に多良間首里大屋子、塩川与人、多良間目差、水納目差を置いて施政が行われました。

 明治24年、平良尋常小学校の分校が設立され、明治42年に特別町村制がしかれてからは、平良村の所轄となりました。しかし、分村希望する有志を中心に分村運動が起こり、大正2年に多良間村の村政が施行されることになりました。

たらまの大自然

2009/3/31 15:23 更新

紺碧の海では色とりどりのサンゴや熱帯魚、数えきれない程の魚の群れに出会え、集落周辺では日本最大の蝶のひとつ、オオゴマダラのゆるやかに舞う優雅な姿が見られます。

ナンゴクワセオバナ、リュウキュウベンケイ、キリンカクモドキなど貴重な希少植物も群生しています。

潮騒の音を聞きながら見る満天の星も見どころのひとつでしょう。

たらま一周マラソン大会

2012/1/24 15:04 更新

毎年開催されるマラソン大会。
たらまの自然を満喫しながら島を一周するのはとても気持ちが良いのでぜひ参加して下さい!

八月踊り

2009/4/20 13:34 更新

毎年旧暦8月に行われる豊年祭「八月踊り」は、島で一番盛大な伝統行事。ただの村祭り?とんでもない。国の重要無形民俗文化財にも指定される奉納舞台は、琉球王朝時代の宮廷舞踊を今に伝える一大絵巻。

ぜひ多良間に足を運んで堪能して下さい!

多良間村歴史年表

2009/4/20 18:00 更新

西暦 日本年号 出   来   事
1390 元中7年 宮古、八重山初めて中山に入貢と伝わる。
1477 文明9年 朝鮮斉州島民与那国に漂着し、多良間島に回送される。
1478 文明10年 このころ嶺間按司多良間島に「神名遊び」を伝える。
1479 文明11年 このころ朝鮮の李朝実録に多良間島はじめて史書にあらわれる。(斉州島民の漂流記)
1500 明応9年 土原宇曽呂、弘治年間、仲宗根玄雅に随従して八重山島の罰徒を追う(赤峯の乱)。初めて多良間島主を置くという。(球陽)
1522 大永2年 与那国征伐(鬼虎の乱)土原春源嘉靖、年間在多良間島主(土原氏家譜)
1532 元文元年 仲屋金盛、金志川を伐る。金盛、尚清王から金志川殺害の非を責められ自害す。金盛の娘真保那璃、父の罪科により王府に捕らえられる。宮古頭職廃止され、豊見親の称号なくなり、大親の世となる。(宮古史伝)
1597 慶長2年 砂川旨屋、唐芋を中国から持ち帰り島中流布せり(河充氏家譜)
1609 慶長14年 慶長の役(薩摩の琉球入り) 。宮古は平良、下地、砂川の三頭制となる。
1628 寛永5年 宮古は平良、下地、砂川の三間切となり、多良間を特別行政区と定めた。(宮古史伝には、多良間は下地間切に属したとある)
1637 寛永14年 宮古、八重山に人頭税を課す。
1678 延宝6年 多良間に族党出現、親泊筑登之親雲上、平良親雲上が捕らえる(過酷な人頭税に対する農民騒動)。
1685 貞享2年 多良間人数改めのため塩川 筑登之親雲上、白川氏下地親雲上来島す。
1691 元禄2年 多良間島に唐人漂着。
1695 元禄8年 この頃心海上人多良間に流刑となる。
1734 享保19年 平敷屋朝敏処刑され、長男は水納島、次男は7年後多良間島に流刑される。
1753 宝暦3年 白川氏多良間首里大屋子恵路、運城、泊、塩川3御嶽を整備す。
1771 明和8年 地震(M7.4)、大津波(明和の大津波)
1823 文政6年 宮古に学校所設立、多良間に会所なるものを設け、特権階級の子弟を教育す。
1855 安政2年 多良間騒動。仲筋村の蒲戸砂川等5人が中山にのぼり役人の横暴を訴える(アコーメー事件)。
1859 安政6年 奥州南部宮古の船多良間島に漂着。
1879 明治12年 廃藩置県(沖縄県となる)。
1885 明治17年 多良間で石油ランプが使われる。
1891 明治24年 平良尋常小学校多良間分校設立される。
1893 明治26年 公立多良間小学校として独立す。
1896 明治31年 島で製糖が始まる。
1900 明治33年 水納島に文教場設置される。
1903 明治36年 人頭税廃止される。
1913 大正2年 平良村から分村して多良間村になる。初代村長、佐久田昌章、議員は有志推薦で8名。
1915 大正4年 2代村長、松岡政憲。
1916 大正5年 3代村長、 松岡政憲(官選による)。
1920 大正9年 役場庁舎建設される。
1924 大正13年 4代村長、山内朝用
1925 大正14年 5代村長、仲本朝恒
1929 昭和4年 6代村長、青木雅英
1931 昭和7年 多良間郵便局開局、鉄筋コンクリート校舎竣工する。
1933 昭和8年 7代村長、座喜味朝好
1938 昭和13年 8代村長、来間泰邑
1941 昭和16年 9代村長、野原浩吉、大東亜戦争始まる。
1945 昭和20年 10代村長、野原浩吉
1946 昭和21年 占領軍による行政施行、日本円から軍票へ通貨切替え。
1948 昭和23年 11代村長、藤村市政
1948 昭和23年 中学校開校する。
1950 昭和25年 12代村長、藤村市政
1954 昭和29年 13代村長、砂川守
1957 昭和32年 政府計画で平野へ集団移民始まる。
1958 昭和33年 14代村長、砂川守、通貨交換B円から米ドルへ。
1962 昭和37年 15代村長、砂川守
1964 昭和39年 電気事業開始、村内電話交換業務開始。
1966 昭和41年 16代村長、下地朝憲
1969 昭和44年 中央公民館落成す。
1970 昭和45年 第17代下地朝憲村長就任。
1971 昭和46年 滑走路完成、大干ばつで人口減少。
1972 昭和47年 沖縄県日本復帰。エアータクシー運行、米ドルから円に通貨切替。
1973 昭和48年 国民健康保険事業開始、村歌・村章制定、村史発刊。簡易水道給水開始。
1974 昭和49年 第18代下地朝憲村長就任、多良間空港開港式
1975 昭和50年 第一普天間丸就航
1976 昭和51年 宮古製糖多良間工場落成(250トン)岩手県宮古市との交流。報恩の碑除幕式。
1978 昭和53年 第19代村長下地朝憲氏就任。水納島分校廃校となる。多良間村中央公民館落成。
1979 昭和54年 村立保育所落成。宮古市愛宕小と多良間小姉妹校締結。広域宮古市町村圏設立。
1980 昭和55年 老人福祉センター落成。
1981 昭和56年 多良間幼稚園舎移転新築
1982 昭和57年 20代村長仲宗根玄常氏就任
1983 昭和58年 村立図書館落成。し尿処理施設完成。村制施行70周年記念式典挙行。水納島飲料水供給施設完成。塩川集落センター完成
1984 昭和59年 へき地歯科診療所新築。消防車庫完成
1985 昭和60年 村議会議員選挙。村営ゲートボール場完成。
1988 昭和63年 多良間村総合整備モデル事業起工式。日本観測史上の大雨、3時間雨量382ミリ。
1989 平成元年 水納島に海底送電。
1990 平成2年 22代村長安里茂男氏就任
1991 平成3年 多良間小学校創立100周年式典
1993 平成5年 村民憲章制定、村林、村花、村花木、村鳥、村魚選定
1994 平成6年 第23代安里茂男村長就任。中型ハーベスター導入。
1995 平成7年 第24代安里茂男村長就任(選挙無効裁決後再選)
1996 平成8年 岩手県宮古市と姉妹市村締結。沖縄県議会議員選挙。農業委員会委員選挙(無投票)。一周道路開通記念式典。
1998 平成10年 中学校創立50周年
1999 平成11年 25代村長安里茂男氏就任
2000 平成12年 ゴミ処理施設落成
2001 平成13年 第26代兼濱朝徳村長就任。新多良間空港工事着工。多良間村議会議員選挙(議員定数10名)。
2002 平成14年 稲嶺知事視察公聴会。村リサイクルセンター、最終処分場、ストックヤード完成。農業委員選挙(決選投票)。沖縄県知事選挙。
2003 平成15年 新多良間空港完成、10月供用開始予定。宿泊、交流施設〔夢パティオたらま〕9月落成。村制施行90周年記念式典
2004 平成16年 保育所落成、市町村合併住民投票、多良間中学校プール開き、沖縄県議会議員選挙、前泊港旅客待合所(リードリームたらま)供用開始、宮古圏域田園地域マルチメディアモデル事業竣工
2005 平成17年 多良間村議会議員選挙(議員定数7名)。農業委員会委員選挙(無投票)                                  第27代下地昌明村長就任。
2006  平成18年   

(資料:多良間村史・村の歴史散歩)

多良間村の民話

2009/12/11 8:36 更新

報恩の碑
安政5年、岩手県宮古市の商船が座礁した場所。
乗組員を手厚くもてなし、本国に送り返したことに対して、そのお礼として碑が建立されました。

たらま島とっておきの話

今から約150年前の安政6年(1859年)1月、船長他乗組員7人が乗り込んだ岩手県宮古市の商船善宝丸は、江戸で諸用を終え宮古に戻る途中、台風に遭い、76日漂流して本村の高穴海岸へ漂着。島民は約2ヶ月間に渡り船長や乗組員を手厚くもてなし、無事、宮古へ送り帰し、そのお礼として、「報恩の碑」が建てられました。

これを受けて、中学生の交流を初め、宮古市からの製糖工場の季節労働者の受け入れが始まり、多良間と宮古市の愛宕小学校が姉妹校となりました。以来、特別な文書も交わさず「友好市村」としての交流を続けてきましたが、平成8年には、両市村の友好と親善をさらに深め、各分野の交流を図っていくために、姉妹市村の終結に向けて話し合いが行われました。そして、「報恩の碑」建立20年の節目に、姉妹市村として正式に締結され、児童生徒の相互交流体験学習などが積極的に行われています。

 2009年1月、漂着から150年目の節目の年を記念し、宮古市と多良間村の絆をより深いものにするために、宮古市から副市長や議長をはじめとする交流団が多良間村を訪れ、交流を深めました。また、同年11月には、多良間から交流団が宮古市を訪問し、八月踊りなどの芸能を披露しながら交流を深めた。

多良間村に伝わる民話 金蠅のたましい

昔、イリスズ家のランプの光が、遠く、マガリ海まで明るく照らし輝いているので、
マガリ海岸の寄り木の神は、怒って「この光、何とかならないものか、
けしからん。
そんならあちらの娘を生捕りにしてやる。」と、
ある晩、カミディマスまで上って来て、
「カミディマスの神よ、神。あのイリスズヤーの光が、毎晩じやましている。
一体あれは何たることだ。さあ、あちらの娘を生捕りにして来ようじやないか。」と言ったところ、
カミディマスの神はあいにくいなかったが、
ちょうど人間がそこに居合わせていて、 代りに
「俺は今晩は忙しいから、 君一人行って来いよ。」
と返事したところ、
カミディマスの神だと信じて、「では自分だけで行って来るから、 家から外に出ないでね。」
と、 今行ったばかりと思っているうちに、
すぐ帰って来て「ほうら、捕えて来たぞ。大したことはないよ。」と。
人間が見てみると、大きい木の葉に金蝿一匹を包んで持って来たので、
「やったぞ、お利巧。」と人間はほめて、 すぐに
「君はそれを持って行ってどうする。 おい、俺が黄金を持っているから、 さあさあ交換だ。」
というと、寄り木の神は、
「ウン、よかううよ。さあさあ。」
と交換してマガリの海に息せききって帰ったらしい。
人間は、さっそくイリスズヤーに、とんで行ったとこう、
もう一門の連中までいっぱいになって、泣き、騒いでいるので、
「何のことか。」「こんなこんなで。」と中の-人が、しゃくりあげながら話したので、
カミディマスから来た舅は、
「ああ皆さん、泣くのは止めて下さい。これは心配ないですから。」と言うと、
「こいつは一体どこの何者だ。死んだ人が生き返るということがあるかツ。」
「うるさい、こいつはどこの者だ。我々がこんなに悲しんでいる時に何たることか、すぐ家に帰れツ。」と。もうあっちこっちから、どなられていたが、
「それでは醤さま私の手でこの娘を生き返らせたなら、私と一緒に結婚させて下さいますか。」というと、-門の一人が、
「どうですか皆さんこの男は、まさか神様ではあるまいしね。」
すると中の長者が、
「ものはためし、まず話の通り聞いて見たらどうだ。」
尊い人の命のことだから昔静かにして聞き入っているとこう、この男は、
「では皆さん、一切払に任せて下さいよ。」
と言いながら、持っていた金塊を、死んだ娘の鼻の中に押し込むと、
「キッファ、キッファ。」と大きなくしやみを連発して起きて座ったので、 営んなは、
目はまん丸くして、あれよあれよと、
駐ぎ驚いて、今までの顔中ぬれていた涙を拭きながら、
「ああ、これは、神様が心を寄せて、この男を遣わして下さったのだ。
ほんとにほんとに、よかったよかった。
では、これはほんとの命拾いだから、あなた様がおつしやる通り、
立派な夫婦にしなければなりません。」
とその晩は、夜明けまで喜びのお祝をして、みごとに結婚させ、夫婦にしたそうだ。