村長のたうけーむぬゆむ゜(ひとりごと)広報12月号掲載

2014/12/15 10:53 更新

12月22日は冬至(多良間ではトゥンジーという)である。一年のうちで昼間が一番短くて、夜が一番長い日である。冬至の日を境に冬の寒さが一段と深まる。冬至と対極にあるのが夏至(多良間ではカーツーという)である。一年のうちで昼間が一番長くて、夜が一番短い日である。冬至と夏至の日照時間はおよそ5時間の差があるという。

多良間では、冬至のことを「トゥンジーガマ」とも言い、別名「イミ正月」とも言った。子どもの頃、ジューシユーを炊いてお供えした記憶がある。この日は早く太陽が沈むぶん夜が早い。「正月えーむ゜」と言って真っ暗闇となった。電気のない時代である。当時は屋敷の周りは福木の木で囲まれていた。道路側もほとんどが福木で覆われていた。電気はなく、懐中電灯も各家庭にあるわけではなかった。外を歩くとき前はほとんど見えない状況であった。そんな時は空を見ながら歩いた。福木と福木の間から見る空はやや明るく見えた。空を見ることで道路に沿って歩けたのだ。これを「ティンプカギ」と言った。

今年は、19年に一度しか訪れない「遡旦冬至(さくたんとうじ)」という、とってもおめでたい特別な日である。「遡旦冬至」は新月と冬至が重なる希少な日である。新月はこれから満月に向かって満ちていく、月の復活を意味します。冬至は昼間が最も短い日なので、冬至を境にこれから陽が長くなっていく日でもある。つまり、冬至は極限まで弱まった太陽が復活することを意味する。太陽の復活と月の復活が重なる、19年に一度(正確には19年と7ヶ月らしい)しか訪れないおめでたい日、それが「遡旦冬至」なのだ。

昔中国では19年に一度、遡旦冬至が予測通りに訪れると言うことは、すばらしい王が正しい政(まつりごと)を行っていると信じられ、遡旦冬至を祝って、宮中では宴を催し盛大にお祝いをしたという。

第41代持統天皇は、この19年7ヶ月に一度のよみがえりの象徴とされる、「遡旦冬至」に国家の繁栄を願い、盛大な祝宴を催したと言われている。

「冬至に天気がよければ翌年は豊作」「冬至に雷が鳴れば雨が多い」「冬至に南風が吹けば地震・日照り・大雨」という言い伝えもあるようです。

「遡旦冬至」のめでたい日を機に多良間村のゆがぷー繁盛、村民の無病息災・喜内繁盛を祈念します。

村長のたうけーむぬゆむ゜(ひとりごと)広報11月号掲載

2014/12/2 18:09 更新

星はすばる、平安時代の清少納言は、すばるは星々のなかでも最も美しいとたたえました。「すばる」とは、たくさんのものを結んで一つにまとめる、という言葉から来ているようです。多くの星が集まっているからこんな名前になったのでしょうか。すばるは、別名六連星(むつらぼし)とも呼ばれ、普通の視力の人なら5,6個の星が見えるようです。
すばるは青白い星の集まりです。408光年という距離のところに120個ほどの星が集まっているという。青白い星は、表面の温度が1万度以上もある高温の星で太陽の数倍もの燃料をもっているのに太陽の数百倍以上も明るく光っています。それで早く燃料を使い果たしてしまう寿命の短い星です。太陽は50億年ほど前に誕生して、あと50億年も安定して光るそうですが、すばるは5千万年ほど前に誕生して明るい星は5千万年後には死んでしまうそうです。
多良間では次のような俚諺があります。「つぱらぬかでぃうふかしいどぅあき゜ぃないゆばーすぅ」(つぱらの風を吹かしてみて商いはするように)。ここに出てくる「つぱら」についてですが、「つぱらとは何月のことですか?」と先輩方に尋ねると、11月頃のことだとの答えが大半である。しかし、この俚諺以外に11月をつぱらとする表現は聞いたことがない。つぱらという言葉自体がこの俚諺以外には使われていないのだ。つぱらという言葉の意味について疑問をもっていた。ある時、先輩の方がつぱらは星のすばるのことである。という話をされた。これだ、と直感的に思った。
古来から星は、規則正しく季節や時刻を教えてくれることからも、農業に携わる人達にとっては貴重な存在であった。すばるは11月頃になると南の空に光り輝くのだ。光輝くすばるを見て農耕の目安にしたことは想像できる。さきに述べた俚諺はすばるが光輝くこの頃(11月)の大風(うぷかでぃ)を過ごさないと穀物の収穫は安心できない、といういましめのように思える。
地域によっては、すばるはその高さでそば蒔きや麦蒔きの時期を知るための重要な目印とされてきた。「すばるまんどき 粉八合」は、そば蒔きの時期を表したもので、すばるが南中(天体が真南にくること)したときが「まんどき」で、夜明け方に南中したときにそばを蒔くともっともよく実り、一升の実から八合の粉がとれるという俚諺である。ほかにも麦蒔きについて、「すばるの山入り麦蒔きじまい」や稲刈りについては、「すばるが二丈ぐらいの高さにたっした時、稲刈りをする」など、すばると農耕との関係を表した俚諺があり興味深い。

村長のたうけーむぬゆむ゜(ひとりごと)広報10月号掲載

2014/12/2 18:11 更新

9月・10月は運動会シーズンである。多良間幼稚園・小学校・中学校の合同運動会も9月27日に開催された。「とどけよう!輝く笑顔 最高のドラマを今ここに」のスローガンのとおりのドラマを生んだ感動する運動会であった。小学校・中学校が合同で開催してから13回目である。幼稚園のかけっこ、小学生・中学生のリレーと一生懸命走った。父母の皆さんも日頃の運動不足の体をいたわりながら走りきった。各学年の特技、それぞれ特徴があった。中学生の組体操心技体が一つになった。小中学生によるエイサーは、心を一つに最高の演舞ができ圧巻だった。親子二人三脚は毎年みものだ。校歌遊戯は連綿と長い歴史を受け継いでいる。未来永劫に続くことを願う。老人クラブ、母親踊りも花を添えた。最後のクイチャーには、小中学生と会場の皆さんが一体となり、大きな輪になり踊った。

正門のソテツのアーチも伝統がある。以前は各学校に作成されていたが今はほとんど見当たらないらしい。もしかすると多良間だけに残っているかも知れない見事なアーチだった。PTAの皆さんには、ソテツのアーチ作りは大変でしょうが、今後とも頑張って欲しい。

小学校の運動会は、以前は創立記念日の10月16日に開催されていた。ちょうど甘露の頃でタカ(さしば)が空一面に舞っていた。タカも運動会を見にきた、と信じていた。時にはタカの糞も空から降ってきた。当時、小学校だけでも400名余の児童がいた。その頃は、一学年で平均80名ほどの児童数であったから、現在の小学校全校児童数に近い。児童数が多いだけに行進も賑やかだった。棒倒しの棒に旗を立てての旗取り競争、騎馬戦、組体操などは男だけの種目だった。女子種目はお遊戯だったように思う。男女一緒の競技は少なかった。男女一緒に遊ぶこともなかった。いま思えばもったいない気がする。

運動会は個人競技・団体競技とも、決められたルールを守り、協力することで大きな力を発揮する。これは、日頃の学校生活や家庭・一般社会でも大切な事である。このことを児童・生徒の皆さんが経験し感じ取って、少しずつ成長していくことが重要である。元気いっぱいでの気持ちの良い笑顔で頑張った、幼稚園31名・小学生85名・中学生57名、計173名の皆さんに拍手を送りたい。頑張るということは美しく素晴らしい。

また、運動会のために日々の準備や児童・生徒への熱心な指導をして頂いた、校長先生をはじめとする先生方には感謝・感謝だ。すでぃがぷー。

村長のたうけーむぬゆむ゜(ひとりごと)広報9月号掲載

2014/12/2 18:11 更新

今年の八月踊りは天候にも恵まれ、三日間とも盛会であった。姉妹市村である岩手県宮古市からも「報恩の翼」19名の皆さんが訪れた。多良間島に流れ着いた善宝丸の船頭「善兵衛」さんの玄孫(やしゃご)に当たる兄妹お二人も初めて来島された。もし、善兵衛さんが生きて帰らなければ私たちは生まれてこなかった。報恩の碑の前で合掌する夢が叶えられた。八月踊りにも感動した。と喜んでおられた。八月踊りに島外から訪れた方は560名余であった。

さて、八月踊りでは、若衆踊り、女踊り、二才踊り、狂言、組踊りと続くが、メインは組踊りである。その組踊りで道行歌として使われるのが、「金武節」である。金武節は、二十五首あり、「執心鐘入」や「手水の縁」など少なくとも十二番の組踊りに使われている。

多良間の八月踊りでは、仲筋「忠孝婦人」で乙樽が谷茶を尋ねる道行きに使う。替え歌として「胸に物思ハ、あよも道程も、覚らすにつきやさ、本の城」意味:胸中に物を思いながら歩いているうちに、いつのまにか元の城(大川城)についた。

塩川「忠臣身替」で亀千代が若按司を尋ねる道行きでの替歌「身替に出

る、武士の義理やも、是までよとめは、ふやかれる袖に、かかるしら玉や、つつもかた」意味:身替に行くのは、武士の義理と知りながらも、別離の袖に、かかる涙はどうしようもない。

多田名組では、千代松が多田名大主を訪ねていく道行きでの替歌「おやの為やとて、やあかと我ないふたり、慈悲しらぬ敵に、くたて又いきよる」意味:親の為を思って守役と私の二人は、慈悲しらぬ敵のもとへ降っていくのである。

仲筋「仲宗根豊親見組」のあふがま くいがまの道行きは「干瀬節」の替歌である。

一般に歌われている「金武節」の本歌は次の歌詞で仲筋二番女踊りに踊られる。「こばや金武こばに 竹や安富祖竹 やねや瀬良垣に 張りや恩納」意味:くばの葉は金武村からとり、竹は安富祖竹で、骨組は瀬良垣でつくり、張りが出来上がったのは恩納である。つまり、「金武節」は金武から安富祖・瀬良垣を通り恩納に着くまでの道行きを、くば笠をつくる工程にたとえて詠んだものである。との説であり、組踊りで道行き歌として歌われているわけが理解できる。

また、金武節には伝説があるが紹介はいつかの機会としたい。

村長のたうけーむぬゆむ゜(ひとりごと)広報8月号

2014/9/9 9:31 更新

小中児童生徒は7月19日から楽しい夏休みに入っている。40日余の長い休みである。夏休みの間には普段できない体験や学習など、有意義に過ごしてほしい。親御さんばかりでなく周りの大人は皆そう願っている。

私たちが小学生のころは、だぬき木(マルバチシャノキ)の実が熟すと夏休みだ。といってだぬき木の実が黄色に熟すのが待ち遠しかった。夏休みといっても今の子ども達のように旅行ができるわけでもないが、心から待ち遠しかった。

夏休みの期間中、朝の5時頃から馬の草を刈り、ほとんどが海であった。むつーべ(はぜの仲間)とりである。潮のひきはじめから潮が満ちるまでの、5~6時間むつーべとりに熱中した。熱い太陽に照らされ、背中の皮が夏休みの間に5~7回はむけた。海のなかでは子どもながらも、いろいろな獲物と出会った。あかぶすあまん(カニの種類)を捕ったときは美味しいあまん(カニ)が食べられるとの思いから嬉しかった。にばり゜(ハタ)はモリで突いたがすてぃ釣ぃ(つりの仕掛け)で捕るのも楽しみだった。食べ物はもっていないのでお腹が空くと、んきふ(海ぶどう)しゃこ貝を捕って食べた。むみんやま(ミノカサゴ)に兄が刺された時があった。毒でもがき苦しむ様には、自分も同じ苦しい思いであった。ときには子サメとも格闘し、大切なモリを折られた。てぃふうなぎ(うなぎの種類)は砂地に生息していて時々捕れた。うなぎの中では美味しかった。むつーべを捕った量はうぶ縄の長さで測り勝負した。仲間同士誰が多く捕ったかの競争だった。むつーべは時には1斤10セントで売れた。そのお金でアイスケーキが食べられるのが嬉しかった。

八月に入りゆがふー雨が降ると、今も昔もきび植え真っ盛りだ。当時はトラクター、耕耘機、ブルトラなど現代の利器はない。耕耘作業は馬の力が頼りだった。スキで掘り起こし整地を行い、うね上げもスキで行った。うね上げをしたら必ず堆肥を入れた。堆肥が足りない場合はぎんねむを刈り取り投入した。堆肥を担ぎうねに入れるのも、ぎんねむを刈り取り投入するのも子どもの仕事だった。大変な重労働だった。しかし、どこの家庭でも普通にこなしていた。それから覆土し、きび苗を配り一本一本ヘラで植えた。さとうきびの植え付け方にしても、今は様変わりした。機械による植え付けが大半だ。

夏休み期間中には、生活習慣が乱れやすいと聞く。家庭での手伝い、農業や牛の世話など家業を手伝うのも、こうした生活習慣の乱れを防ぐ一助になると思う。それだけでなく、家庭での手伝いや仕事を体験し習慣化することは、子ども達の将来に必ず役立つことになる。長い夏休み、子ども達にとって様々な体験や学習を通し、有意義で思い出になるような過ごし方を願うばかりである。

村長のたうけーむぬゆむ゜(ひとりごと)広報7月号

2014/9/9 9:30 更新

「きらりと輝く ゆかり゚村を目指して」を信条に、昨年7月8日初登庁して早いもので一年が経過しました。この一年間村民の皆様からの温かい励ましの言葉をいただきながら村政運営に当たってまいりました。限られた財源と限られた職員のなかでさまざまな課題と向き合い、村長としての責任の重さを痛感しながら、一年の節目を迎えるにあたり、改めて身の引き締まる思いであります。

一年を振り返ってみますと、まず思い出されるのは「村制施行百周年記念関連事業」であります。記念式典、記念碑建立、イメージキャルクターとモニュメントのデザイン決定、石垣での感謝の碑建立等であります。記念式典には山本宮古市長をはじめとする多くの来賓の皆様、各郷友の皆様がご来島され華を添えていただきました。石垣での感謝の碑建立は在八重山郷友の皆様から10年来の願いが叶ったと喜ばれ、石垣市との絆を深めることができました。

また、多良間~石垣航空路線の再開については、当初は採算面で厳しいとの試算で難色を示していた県が、再三の要請により路線再開が確実となるところまでこぎつけました。路線再開後の搭乗率向上に向けた取り組みが今後の課題であります。新製糖工場・集中脱葉機械の新設についても、条件をクリアするのに厳しい状況から、県の理解を得るところまでこぎつけ、27年度の予算化に向けて取り組んでおります。さとうきびエコファーマー認定については、県の多大なるご指導と関係機関の協力、生産農家のご理解により、全農家エコフアーマー認定という全国でも初の快挙となりました。

村長就任二年目をスタートした今、「村民が何を考え、何を望んでいるのか、何を求めているのか」を常に考え、職員一人ひとりが改革者であることをしっかりと自覚・実践し村役場が変わっていく姿が村民に実感できる一年にしたいと念じております。そして、一年前の感動を忘れずさらに気を引き締め、村民の皆様と手を携えながら「大好きなこの多良間村の発展」のために全力投球していくことをお約束いたします。これからも、皆様方のご支援のほどよろしくお願い申し上げます。

村長のたうけーむぬゆむ゜

2014/7/28 14:13 更新

2014/06/30

6月1日はユッカヌヒーであった。ユッカヌヒーは旧暦5月4日に行われる。

元々は、豊漁と航海安全を目的とした海神祭の一環として執り行われるもので、龍にみたてた船で競漕することから爬龍船競漕とも呼ばれるが、ハーリーとして着している。各地の港町や漁村では盛大に行われにぎわう。

多良間では残念ながらハーリーはできなかったが、イビの拝所で豊漁と航海安全、村民の無病息災、五穀豊穣を祈願した。イビの拝所には漁船組合の皆さん、素潜り愛好会の皆さんが朝の9時から集まり祈願し、ハーリー談義に花を咲かせた。来年は御願バーリー

を行うことも約束した。なかには、ユッカヌヒーの意味について魚が卵を産む日だと述べる方もいた。ところが、「しゅふぅ」が生まれるのはユッカヌヒーから、一ヶ月あとらしい。祈願酒を廻し飲みしているうちにてぃだ(太陽)も高くなった。カンカン照りだ。6月ともなるとさすがに直射日光はこたえる。木陰に移動だ。木漏れ日がさして風情がある。中層浮魚礁と漁船組合活動についても話は及んだ。

ハーリーは、今から約620年前に中国の福建省や広東省などから伝わったというのが定説とされている。しかし、沖縄のどこから始まったかについては、豊見城を発祥の地とする説と那覇を発祥の地とする説があるという。

また、ハーリーの起源については次のような話がある。

昔、王様が家来を集めこの世で1番何がうまいか?と尋ねた。ほとんどの家来は、一番は肉、野菜だと答えたが、一人だけ塩と答えた家来がいた。王様はふざけているとカンカンに怒り、どんぶり一杯の塩を食べさせた。その家来は、王様の仕打ちに絶望し、チービシへ逃げてしまった。

やがて長雨続きで塩が作れないようになり、王様の料理にも塩が使えなくなった。毎食毎食味のない料理ばかりで王様はうんざりしていた。ある日お汁がとびきりうまいのでなぜか調べてみた。すると天井裏に置き忘れた塩が、雨漏れで溶け出し鍋におちていたのだった。

王様は塩が一番おいしいと答えた家来を思い出した。そこで彼にあやまろうと王様が命じた3隻の船が、先を争いながら彼のもとへやってきた。そして彼を船に乗せたのだが、彼は長雨を止めようと自分の身を海へ投げてしまった。

そのことがあってから塩が一番おいしいと答えた家来のために、ハーリーが行われるようになったという。

今年の多良間のハーリーは720日に行われる予定である。

(広報たらま平成26年6月号掲載)

村長たうけーむぬゆむ゜

2014/7/28 13:50 更新

2014/05/30

二十四節季の一つ「小満」今年は5月21日である。

ショウマンと言えば私達は大雨・長雨を連想する。ところが、「小満」の本来の意味は、麦の穂が次第に大きくなり、少しだけ満足するという意味らしい。なぜ、少しだけ満足するかと言えば、まだ収穫には至っていないので、大満足というわけにはいかないからだ。多良間では、小満の時期までには麦は収穫を終える時期であり、多良間の季節からすると「大満」といっていいかも知れない。そういえば、麦の初穂を神様に供えるという麦ぷーり゜は4月13日であった。

食べ物が豊富な今の時代と違い、昔は穀物の出来、不出来は命に直接かかわる事であった。そのため、農作物を収穫するまでは、万全の準備を整え、種まきから途中経過まで、事細かく観察し、適切に対応する必要があった。小満の時期は農作物も青々としげり、生長もいちじるしい。

多良間では、一年の豊作に感謝し迎える年もまた豊年であることを願うスツウプナカの時期でもある。「やっかやっか」のはやしは、穀物の穂が八つに重なるまで、実ることを意味していると言われている。今年も来年も年々歳々豊作続きで「大満」であることを願う。

「小利を見れば、即ち大事にならず」という言葉がある。「小利」とはわずかな利益のこと。小利にこだわったり、焦ったりすると、大きな仕事はできない、という意味である。急いでいる時には近道や危険な道は避け、少々遠くても安全で着実な方法をとるという「急がば回れ」という言葉と、僅かな利益を得ようとして、かえって大損してしまう意味の「小利大損」をプラスしたような意味ととらえる。

自分はこうしたい、こうなりたいと思ったら、行き当たりばったりではなく、まず長期の目標を立てる。そして自分が立てた目標に着実に、1つずつこなしていくことが大切である。長い人生、近道をストレートにいくのも良いし、少々回り道があっても良いと思うが、いずれにせよ常日頃から自分を磨き、何事がおきても対応できるような体制を整えておくことが、「大満足」とはいかなくても「小満」にはなり得るものと思う。

(広報たらま5月号掲載)

村長のたうけーむぬゆむ゜

2014/7/28 13:47 更新

2014/04/30

前月号裏表紙で多良間島の星空が紹介されていた。多良間島の星空の評判を聞いて見に来たという方の話を聞いた。多良間は初めてとのこと。星空ですか?それで多良間の星空はどうですか?聞いた。最高だ。来てよかった。世界遺産にしてもいいぐらい最高。えっ世界遺産?星空にも世界遺産があるんですか?初めて聞いて、びっくりした。そこで、「星空の世界遺産」について調べてみた。

それは、南半球の国ニュージランドのテカボとよばれる、人口300人ほどの小さな村だ。美しい山並みが湖をふちどり、湖に面した教会の大きな窓から臨む風景は絶景。見る者の心をとらえ魅力をたたえ、世界中から観光客を引き寄せている。湖と教会の景観で知られるテカボに「星空の美しい村」という評判を新たに生み出した人がいる。星空ガイドをはじめた日本人だ。

テカボの村は、晴天率も高く、乾燥していて空気が澄み、大きな都市が近くにないために、街明かりが少ない。それでいて、何千メートルという高地に登ったりすることなく、誰でも簡単に満点の星を眺めることができる。森林浴ならぬ、星光浴だ。降るような星の明かりに身をひたすことができる。

星がよく見える場所でも、大都市から遠く離れた奥にもかかわらず、大都市の方向の地平線がぼんやり明るくなってしまうところが多いという。しかし、テカボでは地平線のすぐ近くに星が明るくまたたく。けれど地元の人たちにとっては、この星空は当然のもの。私たちの身のまわりに空気がふんだんにあることを当然と思うように、星がこれほどたくさん見られる空が珍しいものという感覚はなかったそうだ。私たち多良間に住んでいる者も、多良間の星空が素晴らしいという感覚はない。しかし、星空に興味のある人達からするとたまらないらしい。

自然豊かなニュージランドに、息をのむほどにみごとな星空がある。あるとき、この村で星空ガイドを始めた一人の日本人男性が、夜空を明るくしてしまう「光害」をくいとめるため、星空を世界遺産として登録しようというアイディアを思いついた。強力な支援者を得て、このアイディアが実現へ向け順調に歩む一方で、村に暮らす人々の間には複雑な思いも芽生え始めているという。開発規制を危惧する人、経済効果を期待する人、開発による光害や自然破壊を懸念する人など。不安と期待に揺れる村と「星空の世界遺産」、実現のために尽力する人たちがいるという。

多良間の星空も世界遺産と言わずとも、星空愛好家達にPRすることにより、売る出す方法がるのではないか。

(広報たらま・平成264月号掲載)

たうけーむぬゆむ゜

2014/2/19 13:58 更新

2014/02/19 14:00

毎年1月24日から1月30日までは、全国学校給食週間です。それに伴い各地区で招待給食が実施されている。多良間小学校においても、1月24日教育委員会関係者とともに私も招待給食に招かれた。1年生から6年生まで各学年に割り当てられての給食である。図書室で待機中に、私は4年生児童から案内をうけた。教室では給食の用意が準備万端整っていた。子供達の給食に対する態度について、さりげなく観察した。食事のマナー、食事の早さ、食事の量、食べ残し、食事後のかたづけなどである。結論からいうとすべてが、すばらしかった。いただきま~す、の号令で食事が始まった。子供達とのせっかくの時間ですから、会話をしながらおいしい給食を頂いた。あなたは誰々さんですね、と聴いた。顔をみればだいたいわかるつもりだった。が・・しかし当てきれなかった。間違ったりすると、自分はどこどこの子供です。とはきはき応えた。逆にある児童から、「村長の仕事はどうですか、村長になって良かったですか」と聞かれ、正直言ってドギマギした。

今日のメニューはグルクンの野菜あんかけ、ごーやー・きゅうり・ワカメの酢の物、あーさ汁と牛乳でデザートはタンカンでした。鍋に残っている料理は競争しておかわりした。今の子供達は、おやつなど間食をよく摂るので少食だと思っていたがよく食べる。見直した。私たちの小学生の頃の食事事情を少しばかり話した。給食は硬いパンと脱脂粉乳という、アメリカからの配給ミルクだけで牛乳はなかった。家庭でも白い米のごはんは、なかなか食べられなかった。さつまいもが主食で、おかずなどはめったにないので、いもばかり食べていた事などである。年代は後になるが、脱脂粉乳から牛乳に変わったのは昭和50年頃であるらしい。昭和51年には、日本人の食事の洋食化に伴い、米の生産量の増大とは反対に米の消費量が減ったため、米余りが続き、余った古米、古古米を処理するため、パン食から米給食に変わった。

先生の給食時間終了で全員が完食である。後片付けも協力してすばやくできた。歯磨きもてきぱきできた。「やーなりどうぷかなり」家庭でも頑張っている事がうかがえる。
飽食の時代、一般的に好き嫌いのある子が増えていると言われている。多良間の児童生徒の皆さんは好き嫌いなく、何でも食べて健康で丈夫な体を作ってほしい。「健全なる肉体に健全なる精神は宿る」と言われるように体も心も逞しく成長することを願う。